史実:仏教を巡る国の二分と、守屋の死
6世紀後半の日本(ヤマト王権)は、仏教の受容を巡って国論が真っ二つに割れていました。先進的な大陸文化の象徴として仏教を積極的に受け入れようとする蘇我馬子(そがのうまこ)ら崇仏派に対し、古来の神々を祀ることを重んじる物部守屋(もののべのもりや)は、仏教を「異国の蕃神(あだしくにのかみ)」として激しく排斥しました。物部氏は、軍事を司る大連(おおおむらじ)として、絶大な権力を握っていたのです。
両者の対立はついに武力衝突へと発展します。用明天皇2年(587年)、後の丁未の乱(ていびのらん)です。『日本書紀』によれば、蘇我陣営には、後の聖徳太子である厩戸皇子(うまやどのみこ)も加わっていました。守屋は、本拠地であった河内国渋川郡の稲城(いなき)に立てこもり、地の利を活かして奮戦。一時は蘇我軍を何度も退ける優勢を見せます。
しかし、戦況は一瞬で変わります。厩戸皇子が四天王像を彫って戦勝を祈願し、士気を高めると、蘇我方の迹見赤檮(とみのいちい)が放った一本の矢が、木に登って指揮を執っていた守屋を射抜きました。大将を失った物部軍は総崩れとなり、守屋は討ち死。これにより物部宗家は滅亡し、以降、蘇我氏が絶大な権力を掌握し、聖徳太子と共に仏教を中心とした国づくりを進めていくことになります。
もしも… 迹見赤檮の矢が、もしも外れていたら
もしも、あの日、迹見赤檮が放った矢が、風に流され数寸でも逸れていたら… 守屋を仕留め損なった蘇我軍は、物部軍の猛烈な反撃を受け、混乱に陥ります。守屋はこれを好機と見て、精鋭部隊を率いて稲城から打って出ました。地の利を知り尽くした物部軍の奇襲の前に、蘇我軍はあえなく敗走。馬子も厩戸皇子も、命からがら大和へ逃げ帰るのが精一杯でした。
この歴史的勝利により、守屋は朝廷における絶対的な権力者として君臨します。彼はただちに都から仏像と仏殿を排除し、仏教を信仰した者たちを厳しく罰しました。日本の国是は「神道国家」であることが、改めて内外に宣言されたのです。
そして守屋は、勝利の地であり、物部氏の揺るぎない本拠地である河内国渋川、すなわち現在の八尾を、新たな日本の中心地「神都(しんと)」と定めました。奈良盆地の大和ではなく、大陸への玄関口である難波津にも近いこの地こそ、日本の防衛と祭祀の中心にふさわしいと考えたのです。
「神都・八尾」には、物部氏の祖神を祀る壮大な神殿が国家事業として建立され、その周辺には軍事を司る役所や武具の工房、兵たちの居住区が計画的に配置されました。政治の中心は大和に残るものの、軍事と祭祀の最高機関は八尾に置かれ、さながら「日本のスパルタ」としての様相を呈していきます。
仏教が導入されなかった日本では、建築や美術、思想の分野で独自の発展を遂げます。飛鳥文化や白鳳文化は生まれず、より質実剛健で、呪術的な色彩の濃い「物部文化」が花開いたでしょう。聖徳太子の十七条憲法も存在せず、法や統治の仕組みは、神々の神託と、物部氏の族長が下す厳格な掟によって定められることになったのです。八尾は、神々の威光と軍事力によって日本を統べる、聖なる都として、その後の歴史に君臨し続けたに違いありません。